kikuyamaru's blog

こちらにはノンジャンルの長文などを書いています。

浅草歌舞伎の着信音

このお正月は特に話題の上演中の着信音。
私は浅草で2回遭遇しました。浅草の日常が戻ってきた気分になりますなー(洒落にならん)
1回目は隼人の挨拶で携帯の電源切ってねの注意喚起の後マイクを置いて口上に入ろうとしたら鳴った。は?この時間に切れって5秒前に言ったじゃん。
2回目が最悪で、熊谷陣屋の弥陀六が制札を持ってセリフを言い始めたら長めにメロディーが。このタイミングよ。
これから高まって幕切れに向かっていくところじゃん。弥陀六もかわいそうだけど、熊谷の歌昇がほんにかわいそう。
浅草は掛かってくることがあるんよね。
だから係の人も歌舞伎座の倍くらい人数をさいてピリピリして注意喚起にくる。幕間でロビーやトイレにいても今のうちに切れと言われる。ところが電波のない歌舞伎座でも鳴る。私も実際聞いたことがあり、何を鳴らしてるのか不思議だった。アラームなんですかね。
真因をつきとめてほしい。
本当に切り方を知らないのか
言葉がわからないのか
電話に出る用事があるのに招待されたから居なきゃいけないのか
(電話を待ってる人は劇場に来ない方がぜっったいにいいよ。鳴らした人が自分の客と分かったら役者もいたたまれないだろう。)

iPhoneについて言うと、最近の電源は本当に切りづらい
誰がボタン二ついっぺんに押すとか考えたんだろ
設定から切るにしても少し深いところにある。
シアターモードってことにして、実際は電源が切れる簡単な機能を実装したらいいんじゃない?

あと、イヤホンガイドの本体を落とす音も浅草は多い。

お荷物から溢れたガイドがおっこちないようもう最初から床に置いたらいいよ。

(すみません、芝居の感想がなくて。(他の名前で書いてます。)ちょっと書いとくと4回ずつ見ました。模索模索の1か月だったことが窺われる。特に源氏店。もっと言うと蝙蝠安。歌舞伎にするのにとても手こずっていた。宗五郎の出来上がり図は見えてるが、安の像は見えてないのだろう。ミスキャストのように言う人もいるけど、こういう役も松也には大事。やがて似合うはず。)

スタージャンの「奈(終)」を見てきました

1シリーズ終わるたびにだいたい"そんなとこで終わりやがってばかやろー"って言ってる。
しかし今回は怒りもわかない。

これはスタージャンなのかな?
解釈を積み重ねるのとストーリーを紡ぐのは違う。
どんなにこねくり回したところで
あの頃の濱尾兄弟はいなくなってしまったので
それは沢山の複製を作っても取り戻せないし
繋げて一筋になったりしないし
軌道修正して辻褄を合わせを頑張る必要もないものだと思う
(合わせるつもりなら最初から合うように作ったらいいし、そうじゃないなら別もので構わないのではないか)
奈ちゃんの物語は美しかったけどそれはそれこれはこれ。
萩野さんありがとう。ずっと出てくれて。

EP2が始まる時この人たちをしなせるために旅に出すのがつらいと思って泣きました

今度の作品は、最後をドにすると終わった感じになるんだよって最後に付けられたドみたいな死で終わる

見ている間はそんなに後付けをこねくりまわして何してるんだろうなと思ったし、最後を見たらこれもまたしなせるために作られた作品なんだなと思えて、しらっとしてしまいました。

どこかで目を閉じた戦士のかた。あなたは何のためにそこでそうさせられてるの?

わたしの知ってる人ではなさそうなかわいそうな誰か。

刀剣乱舞歌舞伎と、松也すごくテレビ出てたよねって話

新作歌舞伎 刀剣乱舞を観てきました

個々の演出などの話は別のブログに長々と描いております。→ 

もうひとつのこぼれ種 新橋に開く双葉 ~刀剣乱舞歌舞伎を観てきました~

kirokubu.daynight.jp

 

で、この先はコンテンツや役のことは書いてないおそれがあります(笑)

ちょっと書いておきたかったことなど。

#作品名が長いんで、以下、とうかぶと略させていただきます。

毎日松也

5月末から6月にかけて、とにかくテレビで松也を見ました。
バラエティでよく見るとはいっても、月に一回あるかないかだったのが、明らかに戦略的に出まくっている。

彼は7月から始まる刀剣乱舞歌舞伎で、初演出(尾上菊之丞との共同演出)と主演を兼ねており、その顔として立ち回っていると思われる。

とはいえ、ここまで毎日テレビで歌舞伎の宣伝をしてる男がいただろうか。

朝の情報番組から、クイズのナレーション、銀座付近で食レポ含む何番組かの街ロケ、自分にスポットの当たる番組、即興劇、原付で遠征、伝統芸能の解説等々。芝居そのものの取材は僅かであり、多くはバラエティそのものに参加して公演情報はちらっと。この大車輪っぷりにはこちらの目が回りました。局を越え、品を変え、ここまで出ないとだめ?と思うくらいの露出量。公演のある日の朝の生放送にまで出てる。

追いかけているほうは同じ話を何度も聞くことになるのだが、SNSを開けば、え、テレビ見たけどとうらぶが歌舞伎になるの?という新しい驚きの声が都度上がっており、あ、みんなまだ知らないんだな。行き渡らせるのって大変と実感する。

5月の歌舞伎座團菊祭の夜の部は、達陀という菊五郎劇団総出演の群舞があり、松也が出るといえば必ず立ち位置は用意されたでしょう。しかし、松也は昼の部の「対面」一本。他はとうかぶの準備の傍らテレビ局やロケに駆け回っていたのではないかしら。

一方で公式ツイッターにとうかぶ情報が流れてくるのはだいぶ遅く、ビジュアル発表から初日一週前に情報が増えてくるまでのほぼ1か月は、公式の呟きは、ぽつんぽつんという頻度。体感、松也の顔のほうがぜったいたくさん見てる。
オンラインゲームが素材の舞台で、メインの拡散媒体がテレビというややレガシーなメディアになってしまい、またこれほどに出してもらえるというのも面白いですが、そこは積み重ねでしょうね。

テレビで観ている松也(や右近)が出ることがとうかぶを観にくるハードルを下げてるのは間違いない。

FFXのときは、何がこんなに歌舞伎初めての人を連れてきたんだろう??、こんなにチケット高いのに?と思い、FFというコンテンツ自体の底力と歌舞伎が融合するあまりにも観たことない作品の力に納得しつつも、私から見ると「勝ちに不思議の勝ちあり」な感覚でしたが、知らないところで価格も情報の出し方も考えられていたのでしょうね。

今回は少し違う。題材ゆえに、家を出て劇場・ライブにくるタイプのファンは多く、その客層が来るだろうと予想できます。
チケットは花形歌舞伎の価格帯です。ベテランの出る歌舞伎より少し安い。最近ミュージカルとか大きな劇場でやる芝居の一万円越えは珍しくなくなっており、FFXのときのさんまんえんに比べると出せる人は多い。
座組は多分狙い撃ちの花形。脇に至るまで、家柄でこの世界にいる人よりは自らの意思でこの世界にいる人を選んだのであろうとみえる座組です。(一部身内人事があるが)
客が来る文脈が古典とは違うので、たぶん客は入る。この座組で人が呼べるという証明にはなるだろうと思いました。

で、もちろん来るには来るんですが、結構な人々が「敷居が高い」という。

(“敷居が高い”警察の方見逃してください。この文脈では、100%、高尚そうに見えて気後れし足を踏み入れにくいの意味で使われています。勢いサンプリングの内容もそうなります。)

他のメディアミックスに足を運ばれた方は、家を出るとか遠征するのハードルは越えてる人たちです。私はそこがいちばんの難所だと思います。茶の間から出られればあと少しなんだよ。
ですが、私も他の伝統芸能は行くの気後れしますし、2.5だって、宝塚だってこわいです。それは心の結界なんだ。
そこは、役者が舞台で芝居を頑張ってもどうにもならない。だって見る前だもの。
最初の誰かが観にきて、複数がコレはイイと言えば後続は来る。
でもその勇気ある最初のお客さんを、引力と背中の一押しで「敷居が高かったけど来た」にしないといけない。
自分が初めてスケートを観に行った「氷艶」を思い出します。あーちゃん(幸四郎)観に行って高橋大輔の写真買って帰ってきたのだ(笑)
実際に「松也さんの本物が見たい」と新橋に来てくれているお客様の呟きを見かけると、ああテレビ出て良かったんだね。と思う。

とうかぶの様式のこと

すっごく用意周到だったFFXに比べるとなかなか情報が出てこなくて、ま、歌舞伎だからなーと、思ってたら、初日の数日前からどどどどどって情報が出て。これは、なんだろうな。検討しすぎて押したのかな、計画かな。
ロケ番組で、お香とか玉鋼とか選ぶときに松也ほんとに迷ってて、右近が説得して現実的な線に落とし込むのを見るにつけ、右近いてよかったなと思う。
(荒川の佐吉でも、髪結新三でもいいから、松也と弟分の右近ってちょっと見たくなってきた)

そんなわけで情報が揃わない最初の頃、巷には憶測が駆けめぐり、ペンライトはアリなのか?団扇はアリなのかという声も上がっていました。
はっ。その可能性(ライブっぽい仕上げ方)もあるのか、と気付き、いや、私の感覚ではそれはないほう寄りだけどまさか?ってちょっと恐々としてました

でも松也が歌舞伎らしい歌舞伎にこだわる理由はあるだろうと思った。

菊之助は、途中で何かぶっ飛んだ企画をやっていても必ず伝統的な歌舞伎の方に戻るのであり、変わったことをやっても一年に一度のハミ出た挑戦と見える。
松也は違う。歌舞伎のほうが年1になりかねない、ドラマや他の舞台のほうが多い現実がある。(望んでそうなってるわけじゃないと思うが)
歌舞伎から逸脱したやり方では、それができてもね…ということになろう。
むしろ、膝下の新橋でやれるこの機会を使って、歌舞伎らしい歌舞伎を作ることが存在証明になるのじゃないか。

とうかぶに呼ばれた役者についてもそうだ
機会が与えられればできるのだということを見せられる場にしたいだろう。
それならば、"歌舞伎役者がストレートプレイをやっているような芝居"ではない方に…と、まあ、半分は願望で考えておりました。

すぺくたくるな演出については、宙乗り、両花道、と夢を広げてたお客さんもいましたが、チケット発売時に座席表を見た限りではそれはなさそうだった。
松也がトークイベントでも古典でいくことを語っていたので、普通でいくんだな、と了解しつつ、どんくらい普通なんだろう?どんくらい難しくいくんだろう?こぢんまりとしないかな?などとそれはそれで気になる。

開けてみれば、時代劇のような平易さである。

外連(けれん)がないかというと、ある。
大掛かりなのはワイヤーアクションくらいだけど、えっ?いつやったの?とか、わっビックリしたということはいっぱいあった(でしょう?)
ある意味外連だらけ。

歌舞伎でいくあまりにすごく渋い作品に仕上がってたらどうしようとちらっと考えましたが、杞憂であった。

歌舞伎の世界に刀剣男士が降り立ったようと書かれていた方がありました。
なるほどそうかもなあって思います。
どの新作も、できることを歌舞伎のメソッドでやっているというのに違いはないのだけど、なにしろ今回のはそのままだからな。姫は姫の格好、殿は殿の格好。古典のまま進む場面が幾つもある。そこにアニメや特撮やそれこそゲームを経由してすこーし現代的になったテイストの名乗りや立回りが入ってくる。そうした2世3世と先祖の共演みたいなとこもありつつ、キャンバスは歌舞伎。

自分は義輝の元に刀剣男士達が初めて現れたとき、なんとなく、世のしがらみとは無縁の旅芸人がふらっと立ち寄ったような風情に見えてました。少し記号として溶け込まないものがあり、それがまたマロウド感になっているのかもしれませんね。

転がるこぼれ種

FFXのとき、菊五郎劇団的なものを感じたというか、あんなに違うにも関わらず、国立劇場の復活狂言豊洲に持っていったようだと感じたんですわ。隼町の種がこんな所に芽を出してる。と。

それが終われば控えているのはとうらぶ歌舞伎です。
初演出となる松也は、菊五郎の元で育ったあと中村屋のやり方も見たし歌舞伎でないものの作り方も沢山見ていて、自主でもモノ作ってて、どう結実すんのかなあ?って興味があったんです。

蓋を開けると、これで歌舞伎じゃないとは言わせん!みたいな舞台に刀剣男士を降り立たさせつつ、古典よりのめり込ませるものができた。
感覚として、これまでの誰のカラーでもない歌舞伎ができたなって感じです。(もちろん松也ひとりの功績ではないのだけど。)

こう書いて気付くのは、松也には継承すべき家の芸がない。継がせる子供も今のところない。
強いて言えば、全体を継承して全体に伝えることが役目かもしれない。
思えば、父上は国立劇場で後進を育てておられた。

最近の新作歌舞伎で見えたのが歌舞伎(or歌舞伎役者)はなんでも扱えるんだよ、何でも歌舞伎にできるよということだったとすると
今回の歌舞伎から見えるのは、歌舞伎そのものが面白いんだよということ。
(これは4月に見た新陰陽師も通ずるものがありました。)

そろそろそのフェーズなんでしょうか。
歌舞伎じゃないもの、歌舞伎そのもの、また歌舞伎じゃないもの、と揺り戻しと前進を続けながら進む世界を客として体感できるのもまた面白いことです。

とりあえず、そろそろ古典だな。本当に。夏が過ぎたら普通の歌舞伎を見る。安心できる歌舞伎が見たい。←むっちゃゆり戻し来てる客

f:id:kikuyamaru:20230721165616j:image

蛇足

ごく最近、少年社中の「三人どころじゃない吉三」を見ました

(ネタバレあり)

このとき最後列の端っこで、なのに観劇用の眼鏡を忘れた私は劇場近くの量販店で新しい双眼鏡を買ったのである(苦笑)

なかったら沈没であった。寄席にあるような演目のめくりがステージ上にあり字幕となっているのを読まねばならぬからだ。

さておき。

この話は歌舞伎の三人吉三の悲劇の結末を変えようと何度でも挑戦を続ける話で、

見たときはとうらぶ知らんかったのでぼんやりと意識してるんだろうなくらいしか思わなかった。

しかし、先に書いた"歌舞伎の世界に刀剣男士が降り立ったような"で、今更気づきました。これは刀剣乱舞の真裏の姿勢なんだなと。

例えば、勘平が確実に腹を切るように暗躍するよりは、切腹しないようにするにはどうすればいいのかをひたすら考えるほうが前向きに努力できる気がする。

今度は生きる話が見たいね。

「なんとか死なねえ工夫はねえかなあ」(長兵衛)

「いつもの」ではない歌舞伎に連戦のこと

昨年(2022)の今頃書いていた下書きを公開してないことに気づいたので公開しておきます。
まだトンネルを抜けてない頃の昨年前半の記憶として。

********

歌舞伎座の公演が三部制になってだいぶ経つ。

なんとか感染症のせいである。

元々三部構成な8月の納涼歌舞伎を除くと、昼の部、夜の部と分かれていて、各部の途中の幕間(まくあい)に客席でお弁当を食べるのが、歌舞伎座の観劇スタイル。

でも、いまは席で物が食べられないし、演目間で極力役者さんが重複しないように割り振られて、2演目ずつで入れ替えになるという三部構成が一年中になっている。

料理に例えると前は定食かコース4品くらい出てたのが、今は1品にサラダが付いてくるくらいになっている。となると1つだけ頼むならどんな料理?という出し方になる。

その時間に収まりがよいコンパクトな新作であったり、今しか見られない花形が主役のもの、名コンビによる夢の演目再現など、これだけ見ようかなというメニューが続く。結果、なんか、年がら年中俳優祭か異色作か浅草の正月か一世一代祭りかという状況で、気がつくといつもの演目見てなくない?ということになっていたのだった。(まあ、そんなもんばかり選んで見てるともいうけどね。)

ということで、今年何見ましたか?というのを振り返っていきますが、なんで年末じゃなく今かというと、そろそろ飽きたからじゃw

 

2022.1 国立劇場『通し狂言 南総里見八犬伝

この月だけは国立劇場菊五郎劇団で明けることにしている。何年かぶりの八犬伝菊之助の信乃に、松緑の現八。正直今回もあまり思い出せないが立ち回りなどちょっと短くしてたように思う。こー、やっぱ川に落ちてほしくない?

なお菊五郎の道節は流石に覚えてる。浜路、兄の犠牲になってかわいそすぎる。

目下の劇団の問題は菊之助が立役に回るようになって、女房役に釣り合う女形がいないことだと思う。梅枝だとまだ線が弱い気がする。いい立女形がいて、立役の松緑がいて、菊之助が兼ねる役をこなすというやつが見たいな。

あと、松也もどってこーい。

 

2022.2 歌舞伎座

二部 義経千本桜 渡海屋

仁左衛門一世一代の知盛。歌舞伎でこの言い方をするときは、もう見られないっていう意味。

ええもん見たと言えよう。乳人の孝太郎さんも立派だった。

仁左さんはコロナ禍で芝居が再開されてから自分の当たり役をどんどんぶつけてきており、観る側もひとつひとつを惜しむように覚悟を持って観に来ていると思う。間引いた客席なのに割れんばかりの拍手だった。

 

三部 鼠小僧次郎吉

前の上演は1993。国立での復活通し狂言で、菊五郎だった。その時の子役は松也。

そうなの。この頃の芝居を色々と浴びている松也は劇団のリズムを知っている。ピースがハマるはずなんだ。戻ってこーいというのはそういうわけ。浅草を卒業したらきっと…と思っている。

脱線したが、今年のやつは途中巳之助が感染で上演中止。その2日前に観に行きました。

これまた約30年ぶりなわけ。すっきりしない所のある話なのと、ええぇ?そんな都合の良い因縁ある?っていう黙阿弥独特のヤツに苦笑してしまう。

しじみ売りの子役は丑之助で、雪の中を丁寧に歩いていた。

 

2022.3 歌舞伎座

二部 河内山

仁左さん休演で歌六さんが代役でした。滅多にないものを見た感じ。

 

二部 芝浜

久しぶりに菊五郎劇団の生世話を味わう。ホームに帰ってきた感じだ。見られるときに見ておかねばならない。哀しいけど、近いうちにこれは見られなくなってしまう。

菊五郎はこの手の役には多分一世一代なんて言わないと思う。踊り踊りてあの世まで

 

2022.4 歌舞伎座

二部 荒川の佐吉

幸四郎の佐吉。

以前に仁左衛門で観た時のやり方が好きだった。というか衝撃を受けた芝居だった。

今回多分少し短くなってると思う。親分の娘さんの印象(酷さ)が結構違う。

右近の演じる佐吉の弟分が際立っていいヤツだった。

あとラスト、仁左さんの佐吉は何年か経ち立派になった佐吉が旅立っていくようだったが、

幸四郎の佐吉は、外からは一目置かれるようになったものの、本人は成長しきっていないように見え、その身の丈に合わない外身を脱ぎ捨てて、最初の、往来に寝っ転がっていた裸一貫の頃に逆戻りしてまた始めるように思えた。若いままの佐吉だった。今しか見られない味かもしれない。

 

 

どこまでがカレー……歌舞伎か

FFX歌舞伎を見てきた。 席が前過ぎて見えないものも多々あったが(という話についてはこちら http://kirokubu.daynight.jp/kikuyamablog/archives/2422

f:id:kikuyamaru:20230324110151j:image

SNSを見る限り歌舞伎というより2.5にみえたという人もいる。自分は前編も結構歌舞伎だろう、と思ったけど、もともと歌舞伎と称するいろんな演目を見すぎて若干線引きがあまいきらいはあると思う。

"歌舞伎役者がやればなんでも歌舞伎"というだれかの言葉があるけれど、全員が歌舞伎役者でも、"歌舞伎役者がやる演劇"になっている作品だってある。(それはそれでアリだが。)
あの言葉はどこまでが歌舞伎なのかを決めたがるひとへの便利な説明であって、結果的に歌舞伎になってるのかという感覚とは少し違うかと思う。

もう一個のブログにも書いたが
菊之助(FFX歌舞伎を送り出した)の父、菊五郎は"復活狂言"という形で、何百年ぶりの上演を長年手がけている。
誰も見たことがない演目を使い、一見本流の顔をしたままどこまで好きなようにできるかを問うてきたんではないかと思う。
イリュージョンもあり、見たことのない着ぐるみもあり。
そういえば、俳優祭で再演を重ねる白雪姫を書いたのも菊五郎だったな。
でも菊五郎は一般には逸脱した歌舞伎を作る人とは思われてないだろう。
古典の発掘に取り組む人間国宝ですよというふうに見えている。たぶんね。

それが菊之助の代になると、ボブのかつらを被り、ほら歌舞伎ですけどなにか?ってすましてみせる。
好きなものを真摯に歌舞伎にしています。でも古典は古典で壊さず大切につとめます。菊之助ですから。という雰囲気だ。

菊之助は、ナウシカにしろFFXにしろ古典の手法を使いこなして歌舞伎の様式にすることをとても意識して作ってるように思われる。

役者からなんとなく滲み出るものがあるから即歌舞伎、とはならない。歌舞伎にある共通の認識をはっきり使って歌舞伎にする。
歌舞伎だったらこの場面は何を使うか?何に当てはまるか。
それを場面場面積み重ねて作る。

それを観て客は、歌舞伎っぽいぞ、と思うわけだ。

でも重ねてできた全体が歌舞伎なのかと言われると、さあ?と思う。
歌舞伎っぽい味がだいぶしたけど、これは歌舞伎でいいの?

スープカレーインドカレーも日本のご家庭のカレーもイギリスから来たカレーも、カレーには違いないよな。
でもドライカレーはカレーだろうか。
カレー鍋は……カレーパンは…はっ、これはシチュー等々
…だんだんこじつけ度が上がってきたが、
どこまでがカレーかの線引きを、御曹司皆がじわじわと周到に広げているのが現代の同時代的な動きではないかと思う。
古典は受け継がれたとおりそのままやるものだ。外連(けれん)はよくない。私がテレビや雑誌で歌舞伎に触れ始めた頃はその価値観がまだ息をしていた。
例えば猿之助(先代)は孤軍奮闘と私には見えていた。
年号が二つ変わり、
題材を広く取ることも外連も悪ではない。そういう歌舞伎もあるという実績が増えていく。それは異端ではなくなったどころではなく、毎年、入れ替わり立ち替わりに色んな一座で新作がかかる。舞台が日本ですらないものも増えた。
歌舞伎とは違う劇を作ってみようとしたのが明治や大正で、歌舞伎に現代のわざを取り入れたり、歌舞伎でありながらわかりやすく面白い体験にするのがひと世代前の取り組みだとすると、
歌舞伎でないところに歌舞伎を持ち込むとか、歌舞伎でなんでも表現してしまうというのが今かもしれない。
コミックが原作の映像や舞台は(ベルばらはともかく)昔は原案や原作と全然違うじゃんと思うことも多かったし、そういうものだと思っていた。
だが昨今は"再現度が高い"ことが最たる価値となっているきらいがある。
そうは言ってもその通りにできない所が出てくるのは致し方ない。
ところが歌舞伎が間に入ると、"見立てる"という第三の目が開く。そのままでなくても、歌舞伎にするならこうか。よく再現できてるなどとと言われる。見たままの印象で"これはないわぁー"と言ってる意見が霞むくらいに。
三次元化と歌舞伎という手段との相性に客も気付いたし、作る側もなんでもやれるのでは?という手ごたえを得ていると思う。
嫌な予感もないではない。2.5次元舞台の濫造のような事態に陥らないことを願う。
題材を選び、時間をかけて、役者を選んで丁寧に歌舞伎にしてもらいてえ。
高い金を出してこれかと思う人が多ければ歌舞伎というジャンルへの落胆を生む。それは哀しい。

最近良いと思った「新作」は手塚治虫原作の「新選組」。流行り病のおかげで途中の配役が変わったせいか配信用の映像が用意できなかったのが残念。
花形と新作の相性がよかった。地味ながら再演を待っている。

メモ:cse windows 10 oracle XE

oracleは64bit.

A5:SQL Mk-2は使えているので、データベースは正常に動いている状態

cseを使いたい

 

できなかったこと:

ociでの接続

64bit版odbcで接続

代替手段:

32bit版odbcで接続


・32bit版 oracle instant cliant とodbcオプションをダウンロードして、解凍できたら全部同じフォルダに置く
・tnsnames.ora に接続したいDBが設定されていることを確認する。なければ追加。
 ※PDBを使いたかったので、追加する。
  サービス名は lsnrctl コマンドでそれらしきものを調べる。
・先人の教えに従い、
 環境変数を設定する(64bit版のodbcのセットアップ時にはしなくてもよかった。32bit版では、設定しないとtnsnames.oraを探しに行ったみたいで)
 Path に oracle instant cliant の置き場を追加
 TNS_ADMIN に、tnsnames.oraの置き場所のパスを設定
 (NLS_LANGを設定したら、内容が間違ってたみたいでハマったので、面倒だから消しました)

ODBC Data Sources (32bit)  (ODBCデータソースアドミニストレーター(32ビット))を windows上で実行する(Windowsの検索にodbcと入れたら64bitと32bitが出てきたので32bitのほうを選ぶ)
 ・追加 を選択
     Data Source Name :てきとう
    Description: てきとう
    TNS Service Name: tnsnames.oraに書いてあるサービス名
    User ID: DBにつながるユーザーID
 ・Test Connection を押す
        ダイアログに Password を入れてOK→ Connection successful   なら成功
  ここですごく時間がかかるときは、何か設定がおかしい(環境変数など)

・ここまでできたらCSEで「ツール」>「設定」>ODBC
 DSNに、先ほど作った ODBS データソースを選択。
 ユーザを入力。

CSEで、データベース>接続>
 DBMS:ODBC汎用
 データソース:さっき作ったデータソースの名前
 ユーザ名:さっきのユーザ名
 パスワード:そのユーザのパスワード

 「OK」

 コンソールに Oracle version 21.00.0000に接続されました が表示される。
 
 成功。

未来に行ってしまった写真の日付をまとめて変更する(Macで)

先日、桜の写真を撮りに行きました。

コンパクトデジカメで撮影し、iphoneMacに取り込んだりしました。
何日か過ぎて、私は気付きました。Twitterに写真の投稿をしようとすると、新しい写真を撮ってあってもこの日の桜が真っ先に選択肢に出てくることに。

あれ?

なんと、日付が1年先の2023年になっているではありませんか。やっちまったー。

この桜を撮りに行った日、カメラを2台持っていました。複数台カメラがあるときは時刻を合わせておかないと、同じフォルダに突っ込んだときに綺麗に時系列に並ばなくなってしまうので、周到に日付と時刻を、時報まで聴きながら合わせ直して万全で臨んだはずだったのです。それが、片方のカメラの年が1年先走っていたのでした。なんということだ。これでは後年自分で見たときに誤った情報のもとに思い出にひたることになってしまう。

どうする? えーと…そうだ。exif(メタ情報)の日付を書き直そう。

私は貧乏性ゆえ、写真の形式はrawではなくjpegで保存しております。デジカメで撮ったときのメタ情報はexifという形式でjpegに埋め込まれています。ここに撮影日も載っているので変えてしまおうという作戦です。

あ、Macでやります。Macじゃない方は、役立たずめと舌打ちしてそっと閉じてください。

適当なツールをお持ちでない方はApp Storeで"exif"で検索して、exifの日付の編集ができるアプリをお探しください。
(DateShiftrというツールはこの用途に使えそうでしたが、無料版は最大2ファイルずつしか変更できなかった。2023年になっている撮影日から1年引くという操作をする場合こんな感じ。↓


私は、手もとにAdobeLightroomがありましたので、それでやることにしました。OSはmacOS 10.14.6 、Lightroomのバージョンは4.4です。

(1)まずは、exifを変更したいjpegLightroomに取り込みます。今回は複数ありますので、メニューから「ファイル>写真を追加…」で複数を選択。→「読み込む項目を確認」→「○枚の写真を追加」で追加します。
(2)複数の写真が表示されるように切り替えてから、日付を変更したい写真を全部選びます。その後でメニューから「写真>日時を編集」を選択します。

(3)「範囲の終了を変更」の欄をお望みの日付時刻に変更して「変更」をクリックしてください。
選んだ写真すべての日付時刻が、この写真を基準に変更されます。
例えば、カメラの時計が3分遅れていた、みたいなときは、ここで3分進めると、選んでいた写真が全部元々の時刻から3分進んだ正しい時刻になる…というような使い方が普通なんでしょうきっと。
この例のように2023年だったものを年だけ2022年にした場合、まる1年遡る変更ですので、選んでいた写真の撮影日付・時刻がすべて各々のタイムスタンプから1年遡った時間になります。

(4)できあがったら、日付が変更できた写真を選択して、メニューから「ファイル>書き出し…」を選択します。
ファイル形式は「元画像+設定」とし、「ファイルの名前」をお好みの形式にして、「○○枚の写真を書き出し」をクリックし、適当なフォルダを選んで「書き出し」ます。

めでたしめでた…s……あっ。

ファイルの変更日が今日になってやがる。

忘れていました。ファイルにはファイル自体の変更日という属性があるじゃないか。exifを変更した日付になってしまう。くぅ。正直ものめ。

ということで、exifの撮影日に合わせてファイルの日付を変えてくれるソフトを探しました。

まー、世の中には同じ目にあった人がいたということでしょうな。

その名も「デジカメ変更日を撮影日に一括変更 for Mac」。わかりやすい。
ベクターから入手できます。( http://www.vector.co.jp/soft/mac/util/se496881.html
ダウンロードしてzipを解凍すると、「ご利用になる前に」のファイルがあるのでじっくり読んだ上で、自分の用途や環境にあっているなと思ったらお使いください。自己責任。

(1)まず、ファイルの日付を変えたいJPGを適当なフォルダにコピーします。この適当なフォルダに至るまでのパスは念のため全部日本語が入っていないものにしました。(「書類」とか「ダウンロード」は実体のフォルダ名は Documents とか Downloads とかなので大丈夫)

(2)デジカメ変更日を撮影日に一括変更 for Mac.app をダブルクリックで起動……しませんね。なにやらダイアログが出ておこられます。ので、この先は自己責任でお願いします。

Macのシステム環境設定から「セキュリティとプライバシー」を開き、「一般」で「変更するにはカギをクリックします。」でMacのパスワードを入力しロックを解除。
「このまま開く」のボタンが表示されていたらクリックします。
(開発元が未確認のアプリの開き方についてのヘルプはこの辺参照 https://support.apple.com/ja-jp/guide/mac-help/mh40616/10.14/mac/10.14 )

途中はどんなやり方でも構いませんがとにかく起動させます。

(3)対象データの「フォルダまたはファイルを指定」のボタンをクリックして、JPGの入っているフォルダを選択します。
(4)オプション「作成日も変更する」「別フォルダに出力する」はお好みで。
私は両方選択しました。(今回の場合作成日をいじらないと作成日だけが未来になってしまうので。)別フォルダに出力する場合は、「出力フォルダを指定」で出力先のフォルダも選択しておきます。
(5)「実行」!
実行後は元に戻せません の警告が出るので納得の上で「実行する」
結果。こんどこそめでたし。

ファイルの変更日は撮影日と同じになりました。

ベクターのレビューに、exifが変わるとかサイズが変わるということが書いてあるものがありますが、私の実行した限りではそういうことはありませんでした。
ファイルの「情報を見る」で実行前後のファイルを比べた様子。左が変更前、右が後。
「変更日」以外は、サイズもその他のメタ情報も変更ありません。勿論画像の様子も変わった様子はないです。


ということで、めでたくexifとファイルの時刻をアジャストできました。