なんでも善意に受け取るってのは
なんでも悪意に受け取るよりはずっとましですけど、
相互理解という意味では齟齬があって
こいつは文句を言ってるってことはストレートに受け取ってくれないと
文句を言った側の気がすまないわあ
なんでも善意に受け取るってのは
なんでも悪意に受け取るよりはずっとましですけど、
相互理解という意味では齟齬があって
こいつは文句を言ってるってことはストレートに受け取ってくれないと
文句を言った側の気がすまないわあ
移動する羊 音楽劇「月の姫さま」 両国門天ホール 2017.9.2-9.3
ここの劇団については、それとわかるように書くのははじめてじゃないかな。
彼らは自分で言葉や概念を発明してしまう。通じない。全然通じない。
「目先」であったり「音者」であったり。…まあ「音者」は言われればわかるけどね。
彼らは「物理」という。その意味は全然わからない。
"理解されないことは前提、でも伝える努力をやめないのは大前提"…と彼らは言う。
そのせいなのか、ふんわりわかればよいようなことを一生懸命説明したりする。
要るところになく要らないところにあるセツメイ。
入ってこない言葉はジャマだ。
ノレない遊びはジャマだ。
ところが、今回は結構伝わる。
伝える手段として、外部の役者がいるというのは成功だったように思う。
劇中、"伝える能力を持つ役"の人がいたが、まあ、そういうことだ。音を発したつもりでも伝える媒体がなければ届かない。
形式は開き直って音楽劇。リズムと「アルゴリズム」両方が噛み合う。
普通に掛け合いをするよりも、きっちりタイミングが決まっている分、ちゃんと計画すればちゃんと噛み合うということだ。
そうすることで、いつもやりたかった(だろう)こと、がより明確に見えるようになったようなきがする。音楽だが、セリフ劇だ。
カラとサイ。羊的な…というか加田的なものが別の役者から自分のものとして体現される。可笑しいw。そうだ。この動き、いつもならきっと加田クンがやる。空を満たすものと闇のもの。でも彼はひとりしかいないからね。それがまるで分かれたみたいにぴたっとはまった。上等。
ほかの、どの役もニンに合ってたと思います。上出来じゃないかな。加田クンの歌以外は (^^;;)
余談。武石さんに、横浜の撮影のときにボランティアやってました、といったら。"ぐうぜんですね。'ジョカン(を武石さんがしてたのです. 著者注)'"と言われた。そう。ジョカン。非常に適切に指示をくれるひとでした。全く関係ないところで線がクロスすることの面白さ。縁は異なもの。
送り手が大切にしないものは
受け手も大切にする必要がないとおもうものですよ
あげたいからあげてるので、あげたらその瞬間にそれは完結してるのです。
なにかしてくれるなら、貰ったから返すのではなく、そのときどきに思いやってくれる心でしてくれるのがうれしい。
逆に、ひとに甘えるのに、自分の"してあげた"ことを拠り所にするのはいやだなと思う。
しかし、どうしても今必要なチカラがある。
不本意と思いつつ
野放しにしていた穂を刈りにゆく。
もしかしたらこぼれ種からなんか生えてないかなと見にゆく。
あさましいと思う。思うけどもその札を切りにゆく。
なんか悪い出来事があったからって、ずーーっとこだわって文句を言い続けている難しいお客様の状況を見て
その人に、こちらに来てくれなきゃいいな、と、思うなど
その人にとっては自分の文句は正当なことで、本当のことなのだ
それはわかるけれど
台風が回ってる理由とは関係なく被害がでておる
どうかそれてくださいと思っている
期待というものに応えていかないと期待はうしなわれる
期待を食べて生きていくなら実現できる夢をみせてそれを叶えることを繰り返してゆかないとかつえる
なにかによる突然の降板や、終了や、キャスト総入れ替えは、会えなくなること自体のダメージが先に見えるのだけど、次第にぽろぽろと溢れてくるのは、ただ、自分の気持ちが尊重されなかったこと、自分の大切にしていたものがないがしろにされたこと、あちらはこちらのことなんかどうでもいいという悲しみだ。
ファンのことを考えてないと共感したり責めたりして理屈で少しまぎらわしたとしても、結局、想いが一緒でなかった悲しみで覆われてしまう。
同じ夢を見せてもらえる時間は限られている。いつ夢の主が夢から醒めてしまうか、あるいは外から斧で殴られるか(酷)わからない。
別々のものであったことに気づかされるときいつもそれを思う。
(怪我とかは仕方がない。どうしようもないもんな。
理由も知らされずに突然喪失するのはきびしい。)