kikuyamaru's blog

こちらにはノンジャンルの長文などを書いています。

「テレビの自画像」とドキュメンタリーに関するメモ

「テレビの自画像 -ドキュメンタリーの現場から-」 桜井均 (筑摩書房)

NHKの放送人。2001年、インターネットの普及を予感しながら、そこにあるのは「取材されたがっている」情報源であり、そこから「ビビッドな現場を探し出せるとは思えません」と書く。
独自の道をたどり、取材されたがっていない対象にこそ接近しなければならないという。
 
本文は、作者が手がけた番組の取材を振り返る。ルポルタージュの話が面白い。そこに、ドキュメンタリーとはなにかを示す言葉がちりばめられている。

接近と距離。カメラを感じさせない空間では「演技が始まってカメラが回るのか、カメラが回って演技が始まるのか、両者の境界線が希薄になって、ある瞬間、互いに自由になったような錯覚を持つのです。」
しかしその密着から抜け出して「背景となる社会的要因」に目を向けなければ、生態記録に終わってしまう。

事態が急激に変わる瞬間を記録するのだという強固な意思。
事実から表現への跳躍。窓なのか鏡なのか。記録者か表現者か。etc...

「現代におけるリアルなものは、フィクションを通さなければ表現できないほど傷ついています。」とある。十余年前の言葉である。
これは、実際にアウシュビッツで処刑前の人の髪を切っていた床屋に、その時と同じ動作をさせながら語らせたドキュメンタリーについて述べた後の言葉である。
かつては、録音があることが、それが実際に起こったということを示す証拠の表現であった。
だが、実際のドキュメント(記録物)を示せない出来事がある。記録がなければそれは起こらなかったのか。「否」である。
それが間違いなく起きたということを語るためにフィクションを通すという作品があらわれたのである。
 
現在はそれから十年余りたっている。
実際に映像や音声を記録することができなかった内容について、通常のドキュメンタリーの合間にアニメーションやドラマで表現する作品は増えていると感じる。
なにより目立つのは、福島第一原発でおきた出来事についての表現であろう。
中で何が起きていたのか、外の人間にはわからない。しかし出来事は起きていたのだ。
データと科学的な検証を通して迫る事故のあらましと、人の心の交差から生じた現場の顛末はどちらが欠けても真実には迫れない。
だが後者の再現に本人を使うことはできない。中央制御室そっくりに作り上げたセットの中で膨大な聞き書きをもとにした脚本で俳優が演技する。
どうしても作り物のにおいがする。やらせと言われないように、あくまでドラマとわかるようにしているのかもしれない。
 
だがこの手法でよいのだろうかと思ってしまう。フィクションを通してリアルを表現できているのか。ドラマがドラマのままに見えるようでは、足りないのではないか。
 
それは緊迫した現場で「写真を撮ろう」と、作業員が撮った1枚の写真よりもリアルさを呼び覚ますか。
それが本当に起こったという実感にせまれているんだろうか。