kikuyamaru's blog

こちらにはノンジャンルの長文などを書いています。

流された町を1年ぶりに歩きました

1年ぶりに東北の海辺の町を訪れました。
昨春、民営のバスが撤退し、行政のコミュニティバスになりましたのでそれで行きました。

昨年は、あまりに前年と変わらないようすに何故なのかと疑問に思ったものです。
そして今年も、新しい家が立ちならぶことはありませんでした。
嵩上げもされていない更地に背の高い草がびっしりとそよいでいたのでしょう。今は茶色くなっています。
強い海風が吹いていました。

変わったと思ったのは、乾いた広大な空き地の上に被災前後の光景を伝えようという意思が感じられてきたこと。悪く言うと観光地化ですが、まっさらの空き地からは地震の直後のどろどろの散乱もその以前の町も想像できない。
壊された物の山すらなくなりました。
説明看板が現地に立ち、ここが元はどのような施設で、発災直後にはどうなっていたか、写真が示されています。
被害の面影すらなくなったから、語り伝えるしかない。そういうことでしょう。

ほかに新しく増えたのは再建された市場と桜の苗木。
桜は一度は過酷な海風からの避難を余儀無くされましたが、昨年5月にまた植えられたようです。
苗木を育てるハウスもありました。
この桜は、もともとは津波の後に生き残った桜の子孫を増やして皆を元気付ける象徴にしたかったのだと思います。
しかし、桜に関するちらしを読むと、復興が待てないと人が流出してしまう。せめて桜が咲くときにここへ集まってほしい。
そんなことが書いてあります。
朝市は別の場所で再開されていたのが、ここに戻ってきた形です。
町が戻ったわけではないので、これも、元の場所に市場を戻したい、そこから復興が始まるという希望の表れのように思われます。朝市が開催されない平日となった3/11は店は閉まっていました。
津波のときは1km先の中学校跡地または6km先の市役所が避難先と書かれています。歩いてみましたが、中学校までの間はほとんど更地であり、その先も平坦で、ひたすら海から遠ざかるしか逃げようがないことがわかります。

新しい盛り土の高さを示す小高い丘がありました。

新しい堤防を作る工事のクレーンが多く見えました。

学校の校庭に多数のテトラポッドが置いてありました。

蓋のないマンホールは多くて、廃材が渡されていました。多分、せめての注意喚起のため。

ガードレールが流された橋には、代わりに工事現場にあるような柵が置かれていました。
去年は風にあおられると川(海)に落ちそうで怖かったところです。
人が通っているということでしょう。

神社の賽銭箱の上には、参拝の作法がかかげられました。
お守りなどを売る社務所ができていました。
ここで少し話そうという、テントがありました。

復興を進めたいという希望と
記憶を伝えようとする心が
にじむように見えるけれど、
そこに生活は見えない。
まる三年の春です。