kikuyamaru's blog

こちらにはノンジャンルの長文などを書いています。

相手が演者となるとともに、突然に観客たれと場に放たれ取り結ぶ小さな関係のしあわせ

そういうことをツイッターに書いたところ、
表現をする人、見る人の幾人かに☆をいただきました。
たぶん、それぞれの方の経験や、受け手、送り手としての意識によって、それぞれのイメージを持たれてのことだと思います。それでよいと思います。

私が考えていたことを書き留めておきます。

チケットを取って、見るぞ、と意気込んでいく芝居というのは、
そもそも観るつもりで行くのであり、客としてのポジションが約束されている、と、いえなくもない。
誰が何を見ているのか。それは、たとえば映画を見に行くのと同じように、送り手のあずかり知らないところでおこることです。

私がかつて見た印象的な歌舞伎(新歌舞伎)に、片岡仁左衛門丈が佐吉を演じた、荒川の佐吉があります。
この人は、型だけではなく、感情を感じさせる芝居をなさる方です(そうしているのだそうですが)。
佐吉が自分の好いたお嬢さんの子どもを抱いてあやしていると、ふっとなにかに気づきます。
ゆびをたてて、すーっと赤ん坊の目の前を動かしてやる。そして、曇る眉。
その気持ち。何を悟ったのか。
自分の中に同じ気持ちが立ち上がってくるのを私は感じました。
いいえ、演じている側は同じ気持ちではなく、その気持ちを持った人間の姿を表に見せるように動いているだけです。そこから、その役の気持ちが私の中に生じたのです。「たぶん…」と想像するのではなく。
ひとが、そういうふうにできていることを思い知らされる出来事でした。

不特定の人に向けられた遠い舞台のあちらから、
なにか、演ずる側の意図が働きかけて
こちらのひとりに及ぼされる作用がある。そのマジック。
これは受け取る側の勝手な感触ではあるが、なにかがとどいたと思われる瞬間である。

しかし、それだけではない。

路上のパフォーマーなどが特にそうなのですが、
こちらの、かすかな期待を読み取って、か
あるいは、あやつをターゲットにしてやろうず、という意識かわかりませんが、、
自分が客となろうとするよりも先に、お前を客と認めたぞ、というメッセージが発せられることがあります。
おや、と思う間もなくパフォーマンスは始まっている
この舞台なき舞台の中に、相手と自分が居るということに気づいたときに、そこに取り結ばれる何らかの関係というのは、しあわせなものである。
そこには、ただ、勝手に進んでいく物語を与えられているというのとは違うイミがあります。

芝居は、どんなものでも、それを潜在的にもっている可能性がある。と思うのです。
先に書いたような、観客であることが約束されたものであっても。演技者が演技者として現れたときに客は改めて本当に客となるのです。