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kikuyamaru's blog

こちらにはノンジャンルの長文などを書いています。

「狼少年タチバナ」を見てきました。

9/18 牧羊犬第2回本公演 「狼少年タチバナ」
(2015 9/16-9/20 テアトルBONBON 作・演出 渋谷悠
橘史郎/テイ龍進、乾六郎/平子哲充)

「狼少年タチバナ」観て参りました
長い書き物は後に譲りますが、乾さんのあるセリフをあまり遠くない過去にリアルに言ったことがあります。
結局あるふたりの関係というのは当人達にしかわからず、相手にとっての自分の重みもわからぬ。きっと重いと信じる賭けなのだ。それが少し裏切られたときに、目の前の人間をどうする?
最後通牒と次への扉と両方の意味を持ったものをぶつけるとき、捨て去っているのか、封じ込めたのかわからない気持ちになる。そんな関係の知人がいました。それを思いました。
狼少年タチバナ、あと2日間だそうです。
(当日の私のTwitterから)

演劇です。
ワタクシ、見たら、ぱーっと忘れるようにできています。
ぱーっと忘れるつもりで行ったら、帰り際に、たいらこさんに"書いてね"、と言われたので、なんかあんまり覚えてないかもしれないんだけど、書きます。
(あ、たいらこさんってーのは平子と書いてたいらこと読みます。スタージャンのネクラー役。)
忘れたころにDVDが出るそうですので、買うから知りたくないっという方は、そっと閉じてください。
見るかちょっと迷う? そうねえ。題材が困った人ですけど、いやなものが残る芝居ではないと思います。

芝居が始まる前から宣伝に書いてあったこと、は、観劇前にみなさんが知識として知っていていい前提だと思いますので、まず書いておきます。
主人公は2人。橘史郎は天性の嘘つき。友人の乾六郎はとある理由で服役中。その乾が4年の刑期を終え出所することになっている。さて。

病的な嘘つき(…おそらく本気で病気)を描くのだ、ということについては種明かしされているので、最初から大演説をこいている橘の前で今騙されようとしている人たちがいるなということはわかる。

橘は、まあいい。こういうひとはいる…んでしょう。
(現実にそういうひとが目の前にいて困っているという方は、医学書かなんかでぴたっとくるタイプを探してみるとよい。対処のしかたも書いてあるかもしれません。)
一方で、正常なようでいて、ふつうそうはしないだろう、普通は…というのが乾という男。
どうやったらそこに至る?そうはなんないだろ?
しかし、この人たちは、そういうひととしてそこに在るのだから仕方ないのですな。そのくらい、「在る」のがこの芝居のいいところだと思います。

在るのは分かるが、中味や経緯はわからない。もしかしてそうか、きっとそうか、と種明かしのないままある程度のところにきて…
『その別々の台詞を合わせて聞く観客には、互いに連関があるかのように重なり合って聞こえ、最後に「こりゃどうしたらよかろうな」といった困惑、あるいは「どうぞ会わせてくださりませ」といった願望という一点ででぴたりと一致して、同じ語句を合唱するに至る。』(かぶき手帖2010年版から 文:児玉竜一)
…歌舞伎で、ときどきこのような仕方になることがあります。割台詞(わりぜりふ)といいます。
このようなものが、この舞台では4人で演じられる場面があります。
#ここが素晴らしかった、という感想がツイッターでちらほらと流れてきました。
ここまで行きつ戻りつして進んできた物語の主と、その鏡となる人物が
別々の時間軸と空間にありながら
ひとつの場に揃って同時に、互い違いにみずからの身の上を問わず語りする。
台詞のアルゴリズム体操というか(何言ってるんだか)、システマチックな感じが印象に残ります。
手塚治虫的なコマから急に石森章太郎的なコマになるっつーか…ますますわからないですねすみません。

この芝居は外側から観察出来る会話でほとんどが成り立っていますが
ここだけ際だって述懐めいていて内面が見えるようになっている。
貯まりに貯まった謎を一気に解くために。
そして、やがてそれが舞台の上の人々にも明かされていきます。

ひとの価値とはなんであるか。自分の価値とはなんであるか。

だれかにとって自分が重要な人と見られているか、そうでないか。そういうことが人の関係をうごかしていきます。
だが、誰に認められようとも、満たせないものがある。たったひとりのその人に認めてもらえなければ、だれに褒められようとも意味がない。そんなひとがいることがある。

橘というひとの核には、親に褒めてもらえなかった自分は価値がないものである、という確信があるのだろうと思います。
その不安は消えない。どんなに自分を大きく見せようとも。
危うい自分の足場を保ち続けるためには、自分を重要と思ってくれる人をどんどん渡り歩かなければならない。
その足下には振り回された者達が転がっている。

こんな人間に助けるだけの価値があるのか?
と、人が問う。

乾は
助けるのにその人間の価値が関係あるか?
という。
そんな人間でも目の前で落ちていこうとしていたら手をさしのべるだろう。

この気持ちはわかる。助けたい欲というのがあるんだ。
冒頭に橘が語っていたように、ひとはこの世を救いたい。
そして助けられる気がしてしまうんだ。
けど、繰り返すうちにわかってくるんです。助けても助けてもこやつはみずからはまりに行くばかりであるぞ、と。
それは延々続くのである。それこそゲームのように。
それでも助ける。どこかの時点で決めたのでしょう。
そして、そのために乾がつくりあげるのは周到すぎるほどのウソである。墓場まで持っていくはずのウソ。
ささえるのは、相手と自分としかわからない過去のできごとである。
自身の4年という重みと引き替えてもよいほどの大切ななにか。

けれどそれはほころびる。女の口から。
乾のワガママは他人が寄り添うには個人的すぎる動機であり
向かい合った関係で完全な共犯になることは難しい。
救いたいという思いは、わがままなものだ。女は男を救いたい。男は友…(?)…を救いたい。

"結局あるふたりの関係というのは当人達にしかわからず、相手にとっての自分の重みもわからぬ。
きっと重いと信じる賭けなのだ。
それが少し裏切られたときに、目の前の人間をどうする?"

どうだ、これで終わりだ、自分で救われろ!

困った人というのは、そんな簡単に困らない人になるというものでもないんで。
それは、病に気づいただけでは治らないのと同じで
やはり同じことを繰り返してゆくんだと思う。
本当の自分を知る、多分たったひとりの人間を気にかけながら。
他人の性分をどうこうするのは本当に難しいことです。不可能といっていいと思う。
外からできるのはきっかけを与えることだけ。その先は、手を出せない領域です。
そのままでは不都合で本人も苦しいということに自分で気づいて、適切な手助けを得ることができたら、光のほうへすすめるかもしれない。
ほんとうに外に出られるまでに、まだ何回も誕生日ができるかもしれないね。

演技やら演出のことは、そっち側に立つことがないのでわかりませんがきっとよくできてたのだと思う。
"世話"な感じであって(これは普通のことばにするとなんでしょう?日常の自然さのままにみえる表現?)、しかし演劇であるから、言葉を選びながら、あるいはぎくしゃくとした空気を醸しながら、あるいは小気味よいかけあいを交えながら、リズムを損なわずに進んでいく。よくできた脚本なのでしょうねえ。すんなり見られましたからね。

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平子さんに関しては
平子さんが乾六郎という存在になってしゃべっているようであった
という感じですねえ。驚くような別人になっていたというのでもないのだなあ。
むー、平子さんってこんな感じだった気もする…っていう。作ってんだか作ってないんだかわからない。そんな感じですねえ。
多分苦労して産んでると思うんですが、そこは見えないから。
まあ、よく知らないんだけど、平子さん。ツイッター見てるとやたらつけ麺ばっかり食べてますよ。胃がブラックホールなんじゃないかと思います。
帰りがけに出口のところにいらしたので1枚撮らせていただきました。撮らなくていいの?っつーから。じゃあ甘えて。
こんな髪型に髭面だったよー。ネクラー様しか見てない人驚くやねー。
あ、そうそう。お誕生日おめでとうございます。この1年も実りあるものになりますよう。

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*1:※本エントリーはさくらのブログから移動しました。投稿日時をオリジナルの日付に合わせてあります。