kikuyamaru's blog

こちらにはノンジャンルの長文などを書いています。

邯鄲の夢 覚醒の螺旋

もんもちプロジェクト第二回本公演
「邯鄲」「卒塔婆小町」
2016/5/19-22 両国シアターX
(5/20 19時の部観劇)

邯鄲
再演です。いちど見ています。
大きな劇場になりました。
背中もたれられる。うれしい。
初演は、厭世的なものが漂っている中に
セリフをヒアリングして頭にインプットしていくような大変さがありました。
けれどもコトバをころがして味わうことはできていた。
今回はどちらかというと普通の芝居に近くなっていた印象です。
わかりやすいすんなりした感じになったかわりに、さらさら進んで夢の印象が薄くなった感じがします。

なにもかもいやになっちゃった主人公が、自分で生きたいと叫びながら、世間ではないところで生きる。これは前向きなのか?
前回は相当後ろ向きに見えた。ですよ。今回は後ろ向きな目的に前向きに突っ込んでくる人みたいな印象です
なにをしに?だろうか。この人を主体に見るとよくわからない。
菊のほうに視点を置いて、次郎の方を狂言回しかマレビトのような存在と見ると、少ししっくりします。
この芝居の中で、私が唯一納得のいくのはこの人(菊さん)の心で起こったこと、です。
旦那に逃げられたら、しおれもするだろう。
それは咲かぬ百合の咎だろうか?しかたない心の動きじゃないか。
それでも、一番よかったころ、必要とされ充実していたときのことを心に大切にしまいつつ生きてきた人に、思わぬものが飛び込んできた。
こだわっていた過去の旦那を探すか、自分の大切なものを再発見するか。
それに答えを出し、もう忘れて前に進みなさいと言ってくれる人が現れたのですよ。大切な宝物の姿をしてね。
そら、花も咲きますよ。
けど、それは芝居からその場で伝わるというよりは、後で考えて思うような感じ。
しかし最後のハッピーエンド感だけがガチです。
「だんまり」の最後に暗幕を落として、ぱっと夜明けになるような、あの印象に似ている。
次郎さん的なものはほかのものでもいいんです。朝は来る。その時期が来たんだと思う。
これは、前と印象の変わったところです。
前は、ああ極楽に来ちゃったな、この世かあの世か怪しいなと思ったもの。

付け足しみたいですみませんけど、ダンスと笛が好き。

卒塔婆小町
小町さんのファンタジーとして見られました
私が子供の頃、「明治百年」とよばれていました。百年でこれほどに変わるということを日本が体験した時期でした。それからさらに、五十年を経ようとしています。あと五十年後。それが"また百年"です。どれほど変わることでしょう。
人間五十年と呼ばれたのは昔のこと。しかし、百年に届くことは稀である。
日常のことでも百年を経るとロマンになってしまいます。
その時間の中で移ろいゆくまわりのもの、自分の姿。
恋を謳歌することは"死"。であると。
夢と言い換えてもいいかもしれない。夢見ているうちは死。覚めているときのほうが生。
皆が夢を見ているときに自分だけ覚めている。それが百年続く。
発想が卑近ですみませんが、皆が飲んでいるときに、自分はたいてい飲まないのでしらふです。
ほかの衆の戯言を聴きながら、それ、しらふのときに言ってごらんなさいよ、言えるかい?言えたら信じてあげるよって思うことがある。
"私はしらふだよ。こっちが真実の世界だよ。"って思っている。
酔っている人間の言うことにまことがないというのじゃない。
夢に自分は入れないということだ。入れない限りは覚めているしかない。
酔っぱらいきらない、覚めている人間同士でいられるときの幸せというものも、自分は、あるように思うのですよ。
でも相手が酔わせたいと思っていたりしたら?。これにはね、邯鄲の枕が要ります。こっちを酔わせるな。自分が覚めなさいよ。
共有した一時のまことは長い間にはウソになる。そんなぐるぐるを、なんども繰り返すのは、限りある人生でもときにあること。
まことしかない優しい人は、覚めることができずにそこで命を落としてしまうのかもしれない。
小町さんはいつまでにどれほどのことに気づいてきたたのだろう。私は、小町さんの知っていることのどれくらいまでを知ることができているだろう。