kikuyamaru's blog

こちらにはノンジャンルの長文などを書いています。

「太陽の蓋」と、未来から来たわたしと

(太陽の蓋 佐藤太監督作品 2017.3.15 シネマノヴェチェントにて鑑賞)

だいぶネタバレです。見たくない方は引き返してくださいね。
あと、原発の事故と政治と情報の話です。そういう題材だからしかたないです。
そのへんが好みでない方も引き返してください。


東京の記者クラブにいる政治部の記者の話です。あまり感傷的ではなく淡々と進む。鬱展開ではないのでその辺は安心して見ていいと思います。


お話は、今より少し前、震災より少しあとから始まる。最初の方で、お前のところでは政治部の書く原発の記事を載せてくれるのか?という仲間からの揶揄があります。
話は当時に戻ります。通常、政府の会見場に入るのは政治部の人です。しかし原子力を担当するのは科学部か、社会部かその辺。そういうことは語られませんが、畑が違うことを示唆しています。
政治部から見えるのは政治家。その政治家がなにも見えていない。情報はどこで止まったのか。情報があればなんとかできたのか。
新聞から伝えられること、テレビから伝えられることが私たちの知る術であり、その記事を作っていた人のいらだちは、そのまま当時の私たちのいらだちでもある。
夫と連絡が取れないままの妻、現場近くの家族。みな、起こっていることがわからなかった。
そしてこの事故の時系列にはもう一つの軸がある。原発自体で何が起こっていたか、です。いちエフで働いていた青年と、(実際専門記者でもそこまでわかっていた人は多くないと思うのですが)起こっていることを解説し次を予言できる有識者として新聞社を去った一人のベテランを配して、筋は進んでいきます。
あのころのとおりに。

でね、ネタバレどころの話じゃないの。映画の中の一喜一憂の後に何が来るか知っている。次に何号機の何が来るかわかる。
出てくる人も知っている。名前の隠されている人が本当は誰であるか。忠臣蔵並みに知ってる。正直こんなことは初めてです。
(さすがにみんなが知ってる人は実名なのですが、そうでもない(?)人とかは、微妙に仮名なの。これ、フィクションだから。フィクション。)
官房長官の会見
電源喪失、電源車はプラグが合わない
ベントはできない
首相が乗り込んでいく
弁を手であけなければならない
爆発
避難
停電
ミリシーベルト
コップの水に挿されたスプーンはなにを意味するのか…
未来から来た人間が歴史で何が起こったか知っているというのはこういう感じだろうかと思いました。
次に何が来るか知っていても、時が進むままに受け入れるしかない。

地下で起こっていたことを見るのはさすがに初めてです。
Nスペなどでも再現されている部分は有りましたが、どっちかというと現場の視点でしたから、初動の対策室の側の目でしっかり表現したのを見るのは初めて。
災害対策室のリアルさで直近で比べられるものとして、シンゴジうんぬんという話があるのだけど、
実際には、あの地震のときはあんなふうに有識者を生かせなかったし、次に何があるか予想しながら対策したりできなかったんだよって、シンゴジがうんとかっこよく見える。
電源車だってバッテリーだって役立てられなかったんだ。現場で頑張ってくれた人の尽力と運で生き延びたようなものなんだ。

時間が少し戻りますが、私がこの映画を見た日は3.11の特集で他の映画もかかっていました。
映画館で時間を待っていたら、ひとつ前の映画を見た人が映写室から出てきて、大きな独り言を言ってました。映画館の番をしていた青年に聞かせるようにね。
 この映画(ひとつ前の映画です)は、戦後の教育の限界を示しているのではないか
 現実から逃げているだけだ。逃げるためにこどもを作って。
 マスクをしたところで放射線を防げるわけがないじゃないか
 原理もわからずに騒いで
 ちゃんとした教育を受けてこなかったんじゃないのか。
 あのときはみんなそうだったのかねえ
って。

私、その映画見てないから具体的なことはわからないけどさ、
あのときは…そうだったじゃないですか。おじさんの周りでは違ったの?
東京で線量があがった時、
専門知識を持ち、職務を全うしなければいけない方が、両親に最後まで東京から離れない旨をメールしたとききました。
ある種の覚悟、ある種の緊迫感、ある種の恐怖、そういうものは確かにあったと思う。
だって、その時は本当に、どこまで行くかわからない事態だったのだもの。
なんとか自分でできることをと情報を探し、マスクしたり、飲み水を確保したりしたのですよ。その時は。
多くの人は、やがて「正しくこわがる」といった姿勢に移ったり、忘れてしまったりしたのだけど、
その恐怖と認識が、しばらくそのままになってしまった人たちが一定数いて、
それは、前に見た「希望の国」でも描かれていたし、
みてないんで何とも言えないけども、そのおじさんの言いっぷりからして、一個前の映画もそうだったのかな。
あのころはそうだった。
いまは、状況は変わっているのですが、変わらない人がいまだにいる。
そのことが、あの土地を苦しめています。

一方でまだ終わっていないことがある。
この映画は雨で始まる。そしてラスト近くでも、ザーザーと雨は降り注いでいる。
この国の人は、天を突いた煙の後の雨に特別の意味があるのを知っています。
しかしそれ以外に、私は、二号機の格納容器に初めて動画のカメラが入った時の映像を思いました。
放射線に起因するノイズの中、ザーザーと雨のように降り注ぐ水を。
どこにあるのかわからない溶け落ちたものに、ずっと水を絶やさず冷やし続けなければいけない。
そして、そこを通り抜けた水を回収し、放射性物質を吸着したのち、ため続けることができなくなれば放出する。
そういうことをずっとずっと続ける。
コントロールされている。そうかもしれない。しかし、コントロールできなくなれば起こることがある。
それは、いまや「想定内」のこととなった。でも、それを思い出さずに生きているのがいまの私たちだ。

せめてこうしてなぞること。
それが「あの時テレビを見ていた人」のひとりとして、私が為すこと。

 

追伸:音楽 ミッキー吉野

で、選曲 MOKU 岡出 莉奈

オッオゥ。思いがけないところで。