kikuyamaru's blog

こちらにはノンジャンルの長文などを書いています。

「ユーリー・ノルシュテイン 《外套》を作る」を見てきました

4/20 横浜シネマリンにて。

「この映画(ドキュメンタリー?)のすごいところは どうなってるんですか?世界がみんな待ってるんですよっていうのをふりかざして、かの国に聞きに行っちゃったというところ。めのさめるような厄介っぷり。」(Twitterから)

オタクの教養のつもりで見に行きました。旧ソ連のアニメーション作家ノルシュテインの次回作「外套」については、はるか昔にアニメージュか何かで読んだことがあります。いっぱしの”アニメファン”を気取っていた10代の頃です。それのメイキングなのかなあと思って。ところが、1980年に制作が開始された、かの作品は、なんとまだ出来上がってなかった。38年。うはぁ。

で、我々は現地に向かった、みたいなノリでどうなってるのか見にいくという話です。

作家は70代になっている。この作家がその間に失った盟友や、途中までできた作品のかけら達や、背景である街、原作にはない部分で表わそうとしたことたち(主人公にとっての文字と外套の意味)などなどが描かれていきます。

アニメーションの技法なども具体的に見られるので、あれはどうやって作ってたのか知りたいという人には価値ある映像でしょう。

時系列があちこちするのでやや混乱する(この辺はオマージュなのかもしれない)のと、向こうの言葉がロシア語なので、字幕を見落として理解が抜けたりするのだけど、国が崩壊し、周囲のことや経済状況を気にしながらの日々、自分や一緒に作品作りを担う妻や周りの健康も万全でなく、納得のいく作品を作ることができる状態にない、という意味が少しずつ腹に落ちてくる。

「食うことを考えずにただ作れたソ連の仕組みが作家性を支えていたのかもしれないと思う。」(Twitterから)

インタビューに答えるロシア語のなかに、時折問う方の日本語が聞こえる。「世界が待っているということをなぜあなたは理解しようとしないんですか」それをこの人は繰り返し力説するんです。多分、ファンが待ってる、というやつですね。資金に関しても「世界が支えますよ!」と言う。

アニメーションの部品(そういう作り方なのだ)を見せてもらっているときの興奮っぷりから想像するに、少し拗らせてるレベルで心酔している方なのだと思う。

しかしノルシュテインさんは待たれているということを煩わしく思っている。

「かの作家は責任があるとすればスタッフがこの仕事をして意味があったと思うことに対してのみ、という。

外からの支援では、そこに応える義務が生じるだろう。

そうした買い手なり画商なりへのしがらみがあっては納得のいくものを作れる「合」を待つことはできないのかもしれない。」(Twitterから)

この作家が、お客になにかを届けるような思想で作ってないってことを、この日本の人は受け入れられないのかもしれんけど、作家のいうとおり世界の人に応える責務なんかないんだろう。

作家には届けたいイメージがある。でも作れるように諸々が整わない。作家の内なるチカラも含めて。

もはや、木の中に仏様が見えてきてから彫る、みたいな世界なんだろうな。しかし、季節は移ろっていく。ときは来るのだろうか。間に合うだろうか。

本当にできるのかなってみんなが気にしながら待つともなく待ってる作品って世の中には色々あるじゃない。

客は、作る側の事情を汲んで待つしかないのですかね。思い出さないふりをしながら。