kikuyamaru's blog

こちらにはノンジャンルの長文などを書いています。

共にあろうとする形はいつも同じではなく

以前書いたものを読んでました。

弥勒にとっての「唯一の自由に動ける私」がアーシュ(阿修羅)。

であれば、私はアーシュでありたい。』

と、ある芝居を見た後に書いてました。

当時はそういう局面だったのでしょう。

幸福な王子の燕のようだと思ったこともあった。

いま、どうありたいか書こうとして、この時とは違うな、と思う。いまはそうではない。その人が動けるならば代わりに飛ぶ必要はない。

 

昨年ワイド―という沖縄のヒーロー作品があって、これはバディものとしての要素があるんですけども、主人公の相方であるガイ先生は、自分は弱くて闘えないけれども"俺はこいつを強くすることができる"っていう、すごいセリフを吐く存在である。自分も別の技術で戦うとかじゃないのね。

実際そのヤグイの力なくしては主人公は並みの強さのままであり、勝てない。魅力的なありかたですが、ここまで自負できる力だと、本当の意味で必要不可欠な人になってしまってきついだろうなと思う。

宇宙飛行士になった奥さんを支える旦那さんのお話のなかに、薬用酒の話が出てきていました。奥さんは親の勧めで昔から飲んでいて、必要だと思っている。でも夫の目から見れば、必要ないと見える。宇宙に行くような健康体ですからね。
理論的には必要ないけれども君がそう思うんならそうかもしれない。

その薬用酒程度のあり方がいいかもしれん。

また、黄金の日日のドラマの中に遥明台(灯台)の灯り守をしているお仙という人物がいます。この人は占いをし、自分は船に乗ることなく船出に灯りをともす、堺という町の象徴のような人物である。お仙のようでありたいなと思ったりもする。

 

”さびしがりのおとこのことやくそくしたからさ”(「秋物語」から 詞:山元清多)*1

秋物語のことばを調べていたら、あるところに "Puff, the Magic Dragon" が並んで書かれていた。

こどもはいつまでも竜のそばにはいない。その落胆で歌は終わる。

でもね、ある子が成長すれば、また次の子がきてくれる。おとなも同じかもしれんね。来たり、いなくなったり。

 

よく"ずっと応援してます" "一生ついていきます" って言う人がいるけど、私は言えないんですよね。ひとの気持ちは変わるってよく知ってる。
そんな約束はできないから、都度行動で示すしかないと思ってきたけれども、その行動自体では、裏切らないよ、居るよ、と示そうとしてきたのだから、ずっと居ると思われてしまうかもしれんね。

ほんとは違うんだよ、いつもいるわけじゃないよ。

今日は、いるってだけなんだからね。

 

 

 

*1:秋物語 とは 淋しがりの男の子をなぐさめていたら夏が過ぎたのを知らずに道に落ちてた燕の歌です。具体的には書かれていないのですが幸福な王子とイメージの重なる歌だと思っています。