次の芝居を美味しくするために、客として
ファンがファンを糾弾するというような場に鉢合わせる。面倒なことではある。
私は半分組織化されたような「ファン活動」は一切やったことがないが、
古くからやってるかたは、一家言あるのですね。
「私にはわかる」と言う。
あなたにはわからないと言いたげだ。いや、わからんでもないよ。
けれど。
皆、自分がいちばんの理解者だと思い、よいと信じた方法で応援してるつもりのはず。
けれど、そのままいけば良い方向に回らないと思えることもある。
そのときは、たとえ、そうする気持ちや理由が理解できても、同じ方には歩めない。
ひとりでも闘うと言ったところでそれが異端だと排除されて終わるなどつまらなかろう。
違う方法で相手を踊らせてごらんよ。
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その人は、客としての立場で内部の人の行き過ぎを牽制するのだという。
客だからできるという。
客だからできることって、私の考えるのは違うよ。
面白かったら手を叩き、つまらなかったら席を立つ。これが客のやることの第一。
例えば芝居や映像への感想や応対への要望を。言うのはお客の役割だ。
それから次のチケットを買って支えること。盛り立てること。これは、贔屓のやること。
それから芝居を一緒に盛り上げる。大向こう的なもの。
(向こうの演出の意図通りに、意図的に動いてあげるようなことはみな大向こう的だと思う。
芝居の途中でなくても、たとえばネットの企画などであっても。
これで見返りがあれば「さくら」ということになるのだろうけど。)
それ以上はもう外野の仕事ではないだろう。何をやる、どう売る。それは一座の仕事さね。
次の美味しい一幕を生むのは最初の、客のやることどもだろうと思う。
うまかった、まずかった、ビミョー、と言ってやったら次にもっとおいしいものが出るかもしれないし
事実、少しずつ美味しくなっている所もあると思う。
だから、書くさ。
広報のために都合のよいものを選ぶのと、見るべき人が見て次に活かすのは別の層のこと。
別の層でちゃんと行われていなければならない。
そこに拾われると信じて書くよ。うまかった、まずかった、ビミョー、って。